『ベンチャー魂の系譜(9)』
【ベンチャー魂の系譜 9.明治のベンチャー】
今回は、明治時代のベンチャー魂溢れる人たちを取り上げた。
対象とする人物は
岩崎弥太郎
安田善次郎
大倉喜八郎
渋沢栄一
益田孝
久米邦武
など。
授業では時間の関係で、このうち、渋沢栄一と益田孝について議論した。私個人的には、安田善次郎の堅実かつ陰徳を積むのに徹した姿勢や、逆に、大倉喜八郎の破天荒な生き様にも大いに魅力を感じている。

また、ここに久米邦武を入れたのは、彼がまとめた『特命全権大使・米欧回覧実記』は是非とも、学生諸君に読んでもらいたいと思ったからだ。岩波文庫から出ている『米欧回覧実記』(5冊)は、カタカナ交じり文なので非常に読みにくいが内容はとても素晴らしい。(現在この現代語訳が慶應義塾大学出版会から出版されている。)明治初期のヨーロッパの文明のようすがよくわかる。そしてそれを取り入れようとした日本人がそれぞれのシステム・機構の是非を評価して、合理的判断のもとで取捨選択している様がよく分かる。しかし、ともかくも当時の日本人の行動力には脱帽する。
********************
モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト
t: tobiuo -- 昭和を選ぼうと思っていたが、明治の方が現代の、特に政治に直接つながっているので興味。
L: ルター -- 環境問題に興味。その課程で経団連の主張にでくわし、(経済成長)、その大本となる明治を調べようと。
渋沢栄一 天保11年・1840年- 昭和6年(1931年)
L:日本に資本主義社会を持ち込む。 ナポレオンIIIの万国博覧会に出席、もともと商業の子だったが銀行に感激、それを日本でも作りたいと。
Q.日本の資本主義を作った成果は?銀行だけ?
L:何百もの会社に関与。
Q.どれくらい?
L:数百社ぐらい。
(SA)数百社というのは漠としている。もっと具体的に数字を示すことが必要。渋沢栄一が設立に関与したのは約100社といわれている。現在も存続している会社は、例えばどこ?
L:分からない。 経緯の方が興味。
(聴衆)『王子製紙』『第一勧業銀行』『帝国劇場』『日本郵政』などがある。
Q.産業界のドンでもあったが、晩年は別の意味でも活躍した?
L:人間愛。
(SA)フィランソロピック(philanthropic)な活動をした。
L:産業界にいた頃は肩書きにこだわらなかったが、のち東京市立養育院(老人たちのために)の院長という肩書きを死ぬまで持つ。
(聴衆)労働運動の援助も行った。
(SA)25,6歳でパリへ行き、ショックを受ける。欧米の強さが分かって、それに対抗する力を日本もつけなければと考える。
Q.晩年の渋沢栄一が力を注いだ件があったが、それは何か?時代背景から考えてどういったことに注力したと考えられるか?
(聴衆)昭和6年あたりは、金融不況のあおりで大不況の時代 隠居して社会事業に力を入れたのではないか。
Q.社会事業として何をした?日米の関係はどうだったか?
(聴衆)WWIに勝ち列強の一員となった日本を米英は危険視し、押さえ込もうとした。
Q.そこで渋沢はなにをした?
t:西洋文明への国民の興味を復活させようとしたのではないか。
(SA)渋沢栄一はキリスト教のプラス面とマイナス面の両方を正しく評価していた。マイナス面としては、当時、アメリカで巻き起こっていた反日感情により日本からの移民が排斥された。日本の排斥を和らげてもらうために渋沢栄一が活躍した。 1921年には81歳の高齢を押して渡米している。また、日本が諸外国からいろいろな援助を受けたことに感謝し、恩返しをしなければならないと考えていた。
渋沢栄一氏の渡米に関する情報
出典:http://www.shimono.co.jp/corp/history/e-shibusawa.html
①明治35年(1902年)渋沢氏62歳
(目的) 海外資本主義の調査・日本経済の信用を高める
②明治42年(1909年)渋沢氏69歳
(目的) アメリカの日本に対する誤解を解く。51名の日本経済界人と同行。米国のマスコミはこの訪米団を大きく取り上げる。
③大正 4年(1915年)渋沢氏75歳
(目的) パナマ万博がサンフランシスコにて開催の為。(パナマ運河開通記念)
④大正10年(1921年)渋沢氏81歳
(目的) ワシントン会議のオブザ-バ-として渡米。
*************
益田孝について
t:1848生まれ、1938年死去三井物産の初代社長。三井物産を三井銀行と同じ立場にまで引き上げるために尽力した。
Q.それはどういう意味をもつのか?益田のpassionは?三井銀行の従属的立場ではダメだったのか?やりたかったことは?
t:当時、三井の石炭を上海、香港で販売しようとした。その利益で日本を繁栄させたいと考えた。
Q.三井に入るきっかけ?
t:明治財界を握る井上馨と出会い、一本釣りされる
Q.なぜ応じた?
t:益田は英語が堪能だった。明治5年、日本の首都になるだろうと目されていた大阪の造幣所でトップが二人いた。一人は日本人、もう一人は英国人だった。その日本人は英語をしゃべれず、英国人との仲が険悪になっていた。この問題の解決のため、大蔵省入省して造幣局へ。
Q.当時益田は官僚。その彼がなぜ好きこのんで民間に下ったのだろうか?当時、明治初年の官と民の位置関係は?
(聴衆)官僚は東大卒のエリート、民間ビジネスに携わっていた人たちは、一般的に大学を出ていない。
Q.このように、当時官民の間は、明確な階層、つまり差別意識があった。それなのに益田は、なぜ官僚を捨て一本釣りに応じた?パッションがなければ民には行けぬのでは?
L:益田は民から官に行ったが、官はエリートコースでどうしても余所もの扱いされた上、自分の自由にものを動かせない。
(聴衆からいろいろな意見がでる)
*官だけではできることが限られていたため。
*資本主義社会のため、会社がどうしても必要。
*民は官に出来ないことをやれるし、下の階層に押し込められて悔しいので。
*最後まで新政府に反抗した藩は官に入りにくかった。
*日本以外での民と官の立場を考えた場合、外国では民の立場が高くなっているのだから、それを予期して、民に移ったのではないか。
t:炭坑が官営だった時代、新技術に関して保守的だった。民ならば最新技術をすぐに導入できる。その自由にひかれて官から民に移ったのではないか。
(SA)『特命全権大使・米欧回覧実記』は是非読むべき。明治の初年にヨーロッパを巡った人たちは、欧米では、民間人が官僚・政府役人と対等につき合っているのを目のあたりにした。全く卑屈になっていない。これこそが国の発達の原動力だと理解した。そういった社会を実現しようと、考えて帰ってきた人たちが、民のために生涯を捧げた渋沢栄一であり、益田孝であった。彼らのPassionは、究極的には、国力増進であるが、そのためには、民間人の地位・意識向上が不可欠と考えた、献身的努力をした。
【心に残ったエピソード】
t:幕府がまだ残っている頃、益田が騎馬守であった。将軍と謁見したとき、益田は西洋の軍服を着て、立ったまま謁見した。益田の判断では、「幕府側から人材は流出していただろうから謁見の仕方が悪いからと言って罰せられはしないだろう」という胸算用があったのだろう。
L:渋沢の国立第一銀行総裁就任時訓辞。『算盤勘定だけでは人の道からはずれる。論語を読め。論語と算盤の両方で身をたてよ。』
今回は、明治時代のベンチャー魂溢れる人たちを取り上げた。
対象とする人物は
岩崎弥太郎
安田善次郎
大倉喜八郎
渋沢栄一
益田孝
久米邦武
など。
授業では時間の関係で、このうち、渋沢栄一と益田孝について議論した。私個人的には、安田善次郎の堅実かつ陰徳を積むのに徹した姿勢や、逆に、大倉喜八郎の破天荒な生き様にも大いに魅力を感じている。

また、ここに久米邦武を入れたのは、彼がまとめた『特命全権大使・米欧回覧実記』は是非とも、学生諸君に読んでもらいたいと思ったからだ。岩波文庫から出ている『米欧回覧実記』(5冊)は、カタカナ交じり文なので非常に読みにくいが内容はとても素晴らしい。(現在この現代語訳が慶應義塾大学出版会から出版されている。)明治初期のヨーロッパの文明のようすがよくわかる。そしてそれを取り入れようとした日本人がそれぞれのシステム・機構の是非を評価して、合理的判断のもとで取捨選択している様がよく分かる。しかし、ともかくも当時の日本人の行動力には脱帽する。
********************
モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト
t: tobiuo -- 昭和を選ぼうと思っていたが、明治の方が現代の、特に政治に直接つながっているので興味。
L: ルター -- 環境問題に興味。その課程で経団連の主張にでくわし、(経済成長)、その大本となる明治を調べようと。
渋沢栄一 天保11年・1840年- 昭和6年(1931年)
L:日本に資本主義社会を持ち込む。 ナポレオンIIIの万国博覧会に出席、もともと商業の子だったが銀行に感激、それを日本でも作りたいと。
Q.日本の資本主義を作った成果は?銀行だけ?
L:何百もの会社に関与。
Q.どれくらい?
L:数百社ぐらい。
(SA)数百社というのは漠としている。もっと具体的に数字を示すことが必要。渋沢栄一が設立に関与したのは約100社といわれている。現在も存続している会社は、例えばどこ?
L:分からない。 経緯の方が興味。
(聴衆)『王子製紙』『第一勧業銀行』『帝国劇場』『日本郵政』などがある。
Q.産業界のドンでもあったが、晩年は別の意味でも活躍した?
L:人間愛。
(SA)フィランソロピック(philanthropic)な活動をした。
L:産業界にいた頃は肩書きにこだわらなかったが、のち東京市立養育院(老人たちのために)の院長という肩書きを死ぬまで持つ。
(聴衆)労働運動の援助も行った。
(SA)25,6歳でパリへ行き、ショックを受ける。欧米の強さが分かって、それに対抗する力を日本もつけなければと考える。
Q.晩年の渋沢栄一が力を注いだ件があったが、それは何か?時代背景から考えてどういったことに注力したと考えられるか?
(聴衆)昭和6年あたりは、金融不況のあおりで大不況の時代 隠居して社会事業に力を入れたのではないか。
Q.社会事業として何をした?日米の関係はどうだったか?
(聴衆)WWIに勝ち列強の一員となった日本を米英は危険視し、押さえ込もうとした。
Q.そこで渋沢はなにをした?
t:西洋文明への国民の興味を復活させようとしたのではないか。
(SA)渋沢栄一はキリスト教のプラス面とマイナス面の両方を正しく評価していた。マイナス面としては、当時、アメリカで巻き起こっていた反日感情により日本からの移民が排斥された。日本の排斥を和らげてもらうために渋沢栄一が活躍した。 1921年には81歳の高齢を押して渡米している。また、日本が諸外国からいろいろな援助を受けたことに感謝し、恩返しをしなければならないと考えていた。
渋沢栄一氏の渡米に関する情報
出典:http://www.shimono.co.jp/corp/history/e-shibusawa.html
①明治35年(1902年)渋沢氏62歳
(目的) 海外資本主義の調査・日本経済の信用を高める
②明治42年(1909年)渋沢氏69歳
(目的) アメリカの日本に対する誤解を解く。51名の日本経済界人と同行。米国のマスコミはこの訪米団を大きく取り上げる。
③大正 4年(1915年)渋沢氏75歳
(目的) パナマ万博がサンフランシスコにて開催の為。(パナマ運河開通記念)
④大正10年(1921年)渋沢氏81歳
(目的) ワシントン会議のオブザ-バ-として渡米。
*************
益田孝について
t:1848生まれ、1938年死去三井物産の初代社長。三井物産を三井銀行と同じ立場にまで引き上げるために尽力した。
Q.それはどういう意味をもつのか?益田のpassionは?三井銀行の従属的立場ではダメだったのか?やりたかったことは?
t:当時、三井の石炭を上海、香港で販売しようとした。その利益で日本を繁栄させたいと考えた。
Q.三井に入るきっかけ?
t:明治財界を握る井上馨と出会い、一本釣りされる
Q.なぜ応じた?
t:益田は英語が堪能だった。明治5年、日本の首都になるだろうと目されていた大阪の造幣所でトップが二人いた。一人は日本人、もう一人は英国人だった。その日本人は英語をしゃべれず、英国人との仲が険悪になっていた。この問題の解決のため、大蔵省入省して造幣局へ。
Q.当時益田は官僚。その彼がなぜ好きこのんで民間に下ったのだろうか?当時、明治初年の官と民の位置関係は?
(聴衆)官僚は東大卒のエリート、民間ビジネスに携わっていた人たちは、一般的に大学を出ていない。
Q.このように、当時官民の間は、明確な階層、つまり差別意識があった。それなのに益田は、なぜ官僚を捨て一本釣りに応じた?パッションがなければ民には行けぬのでは?
L:益田は民から官に行ったが、官はエリートコースでどうしても余所もの扱いされた上、自分の自由にものを動かせない。
(聴衆からいろいろな意見がでる)
*官だけではできることが限られていたため。
*資本主義社会のため、会社がどうしても必要。
*民は官に出来ないことをやれるし、下の階層に押し込められて悔しいので。
*最後まで新政府に反抗した藩は官に入りにくかった。
*日本以外での民と官の立場を考えた場合、外国では民の立場が高くなっているのだから、それを予期して、民に移ったのではないか。
t:炭坑が官営だった時代、新技術に関して保守的だった。民ならば最新技術をすぐに導入できる。その自由にひかれて官から民に移ったのではないか。
(SA)『特命全権大使・米欧回覧実記』は是非読むべき。明治の初年にヨーロッパを巡った人たちは、欧米では、民間人が官僚・政府役人と対等につき合っているのを目のあたりにした。全く卑屈になっていない。これこそが国の発達の原動力だと理解した。そういった社会を実現しようと、考えて帰ってきた人たちが、民のために生涯を捧げた渋沢栄一であり、益田孝であった。彼らのPassionは、究極的には、国力増進であるが、そのためには、民間人の地位・意識向上が不可欠と考えた、献身的努力をした。
【心に残ったエピソード】
t:幕府がまだ残っている頃、益田が騎馬守であった。将軍と謁見したとき、益田は西洋の軍服を着て、立ったまま謁見した。益田の判断では、「幕府側から人材は流出していただろうから謁見の仕方が悪いからと言って罰せられはしないだろう」という胸算用があったのだろう。
L:渋沢の国立第一銀行総裁就任時訓辞。『算盤勘定だけでは人の道からはずれる。論語を読め。論語と算盤の両方で身をたてよ。』