限りなき知の探訪

リベラルアーツ・アカデミー - 人類四千年の特等席からの眺め

【2011年度・英語授業】『日本の情報文化と社会(6)』

【日本の情報文化と社会 6: Travelers' Views (Before Meiji)】

日本はユーラシア大陸の極東にあるも、南太平洋からの黒潮や台風のおかげ(?)で様々な人達がやってきている。中国や朝鮮半島の人のみならず、ペルシャ人とおぼしき人も AD654年、孝徳帝の白雉五年に日向に漂着していることが『日本書紀』の巻25に載せられている。(夏四月。吐火羅國男二人。女二人。舍衞女一人。被風流來于日向。)これ以外にも、『日本後紀』にもこのような漂流者が一再ならずいたことが記録されている。

しかし、16世紀になってからポルトガル人、ついでオランダ人、イギリス人が積極的に日本を目指してやってきた。彼らの目的は端的には利益追求であったが、意図せずに日本に新しい文明の風を吹き込んだ。日本人はこれらの人達がもたらした新しい文物に限りない興味を感じた。それは、彼らがそれまでに他の諸国(アフリカ、アジア)では経験のしたことのない、高度に知的な興味と理解度の速さであったようだ。

キリスト教至上主義を信じ、非キリスト教徒、つまり異教徒たちを人間扱いするに値しないと考えていた彼らも、日本人に出遭って、始めて対等あるいは対等以上の文明の高さを感じた。このことが彼らをして真剣に日本ならびに日本人のことを研究しようと動機付けたと言っていいだろう。日本にとって幸運だったのは、これらの記録を書き残した人達の大部分が、日本社会に対して冷静で批判的な見方(critical thinking)はするものの、根底には日本にたいして偽らざる暖かい愛情をもっていたことであった。それは打算を超えた、ヒューマニスティック(humanistic)な感情であったと思える。

筆まめな彼らのお陰で、我々現代人は、当時の日本の社会の様子をこと細かく知ることができる。同時にヨーロッパの価値観との差を知ることで、当時の日本人の外面的な生活様式だけでなく、内面の様子まで手に取るように知ることができる。

この意味で、多少の誤解や情報不足による曲解はあるものの、これら異邦人の旅行記は日本とヨーロッパ双方の根源的な理解の為には是非とも読むべきである、と私は考えている。

今回は明治以前の異邦人の旅行記を取り上げる。

以下にこれら旅行記の一覧を掲げる。大抵は、岩波文庫平凡社の『東洋文庫』、講談社学術文庫、に納められている。
 *ザビエル(『ザビエルの見た日本』)
 *ルイス・フロイス(『日本史』)
 *フランソワ・カロン(『日本大王国志』)
 *ケンペル(『江戸参府旅行日記』)
 *ツンベルク(Carl Peter Thunberg)(『江戸参府随行紀』)
 *シーボルト(『江戸参府紀行』)
 *タウンゼント・ハリス(『ハリス伝』『日本滞在記』)
 *ディキンズ(『パークス伝』)
 *オール・コック(『大君の都』)
 *ヒュースケン(『ヒュースケン日本日記』)
 *カッテンディーケ(長崎海軍伝習所の日々--オランダ海軍将校)
 *ペルー提督(『日本遠征記』)
 *シュリーマン(『シュリーマン旅行記 清国・日本』)
 *ミッドフォード(リーズディル卿回想録『英国外交官の見た幕末維新』)
 *アーネスト・サトウ(『一外交官の見た明治維新』)
 *ロバートフォーチュン(『幕末日本探訪記』)
 *海遊録(朝鮮通信使日本紀行)




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ルイス・フロイス(1532-1597)(日本滞在:1563-1597)
 ルイス・フロイスは、イエズス会の牧師であり布教のために日本に来日し、日本で没した。彼の「日欧文化比較論(Topsy-Turvy)」では、日本と欧州の文化の違いが当時の視点で描かれている。

・フランシスコ・デ・ザビエル(1506-1552)(日本滞在:1549-15 51)
 フランシスコ・デ・ザビエルは、バスク生まれの同じくイエズス会の宣教師として日本に訪れた。京都に上り天皇から布教の勅許を得ようとしたが、叶わなかった。二年半という短い期間の滞在で、布教自体は成功しなかったが、彼の高潔な人格と挙措で当時の日本人の称賛の的となった。

・ザビエルのコメント
 日本人は、非常に自尊心が高く、すぐ立腹するが、貪欲な人種ではない。気前がよく、友達になりやすい。盗みは非常に憎まれ、死刑に処せられる。仏教徒儒学者は、お互いに仲が悪い。

・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
 ヴァリニャーノは、極東におけるイエズス会の布教を監督する立場にあった。日本では、「適応主義」と呼ばれる布教方法を取った。それは、キリスト教の習慣に囚われずに、日本の文化に自らを適応させることで、布教の成果を得ようとする意図であった。

・ヴァリニャーノのコメント
 貴族も大衆も貧しいが、貧しさを恥と思っていない。侍は戦いに従事するが、庶民は平和に暮らしている。侍は領主に対する忠誠心が欠落していて、よく裏切る。彼は「日本人は、他の東洋人より秀いでるだけでなく、西洋人にもまさる」と書き残している。

・フェルナン・メンデス・ピント
 フェルナン・メンデス・ピントは、中東や極東を旅したポルトガル人。当時の日本の武士の態度について、「日本の武士は、一度意を決したら、命知らずにかかってくる。」と驚いている。

天正使節団(1582-1590)
 ヴァリニャーノの勧めでキリシタン大名大友宗麟ローマ法王とスペインの王に少年の使節団を派遣した。少年たちはいずれも12歳から13歳。伊藤マンショ、千々石ミゲルなどがいる。彼らは、ヨーロッパから、凸版印刷や西洋楽器、羅針盤などを日本に持ち帰った。しかし、帰国後キリシタン弾圧のもと不本意なあるいは悲劇の生涯を送ることになった。

・ウィリアム・アダムス(1564-1620)(日本滞在:1600-1620)
 アダムスは、交易のため東アジアに来たが、日本に漂着し幕府に捕われ、徳川家康のもとで外交顧問などを務めた。帰国を熱望したが、情報漏えいの危険から、徳川家康は許さなかった。

・フランソワ・カロン(1600-1673)(日本滞在:1619-1641)
 カロンは、東インド会社で30年以上勤め、キャビンボーイからバタヴィア商務総監にまで昇進した。日本には20年以上滞在し、日本人妻との間に数人の子供も儲けた。日本のことを幅広く記した「日本大王国志」を書いた。

カロンのコメント
 都市の住宅地区は、小さい区画に区切られ、その区画の両端には、門が設置され、日暮れとともに閉鎖された。ささいな罪でも死刑に処せられ、重大な罪は家族もろとも殺された。また、7歳から12歳の子供達もまるで大人のように振る舞っている、と驚いている。

・日本のオランダ商館長(カピタン)
 オランダの商船は、1621年から1847年までに、715隻が来日した。日本への輸入は中国産の生糸や絹織物、代金決済には金、銀、銅、日本刀が使われた。オランダは日本、中国、東南アジア、インド、ヨーロッパとの間で三角貿易で富を築いた。江戸時代の鎖国中、歴代166人のオランダ商館長が出島に滞在した。

 オランダ商館長のイサーク・ティチングは日本人と深い交流をした。桂川甫周や朽木昌網とは、帰国後も文通するなどの親交を結んだ。ヘンドリック・ドゥーフは、「ズーフ・ハルマ」と呼ばれる蘭日辞典を編纂した。ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセルは、『日本風俗備考』(Bijdrage tot de kennis van het Japansche Rijk)を書き残した。

・西洋人のコメント
 エンゲルベルト・ケンペルは『江戸参府旅行日記』で、カール・ツンベルグは『江戸参府随行記』で、ヴァーシリー・ゴローニンは『日本俘虜実記』でそれぞれ日本に対してコメントを残している。

・エンゲルベルト・ケンペル『江戸参府旅行日記』
 他のキリスト教の国よりも、日本では犯罪が少なく、また法廷によって裁かれ、惨殺される例がヨーロッパ諸国に比して少ない。また、中国は日本のことを『売女』国と見なしている。来日中国人は中国国内では厳刑に処せられる買春が日本では大手を振っておこなうことができると喜んでいた。

 日本に住んでいる人達は、体格は小さいもののスマートである。特に女性は他のアジアの女より美しい。ただ残念なことに、厚化粧のため、ロウ人形のように見える。

・カールツンベルク『江戸参府随行記』
 日本人は、反抗心は、内に秘め表に出さない。仏教には多くの宗教があるが、お互いに殺し合いすることなく平和に暮らしている。この国の奇習に、娼婦も一定期間の年季が明けると自由になり、身分の高い人も含め、誰とでも結婚をすることができる。

 女性は裸を人目に晒すことには無頓着である。公衆浴場では男女混浴である。日本人は清潔好きで、毎日風呂に入っている。農地には、いくら目をこらしても一本の雑草も見つからず、よく耕してある。日本人は、鉄や銅、絹などの手工品が上手だ。

 日本人の新しい知識に対する好奇心は非常に旺盛で、特にヨーロッパから入ってきたものに対する関心は高い。それらの学問や技術を学び、自らのものとしている。また日本人の器械的な発明の才は群を抜いて優れており、数多くの秀逸な工芸品がある。。

 日本人は、自らを選ばれし民だと考えているらしく、また、他の国の人より自らは優れていると思っている。日本の農民たちは田畑を思うままに開墾するが、とてもスウェーデンでは想像もできないような自由を享受している。

・ヴァーシリー・ゴローニン『日本俘虜実記』
 日本では大声で論争することは、傲漫で無礼と見なされている。彼らは、あたかも自分の意見が間違っているかのように控えめに話す。彼らは直接的な反論はせずに、婉曲に、例などを挙げながら非を鳴らす。

 日本人は、ある法則に基づいて、何かを設計したりするのが苦手で、要塞や砲台のなどの設計も、戦略なく建てられている。絵画や建築、彫刻、音楽、詩の分野において、西洋人よりかなり劣る。とりわけ軍略は子供だましのように幼稚だ。

マシュー・ペリー(1794-1858)「ペリー日本遠征記」
 ペリーは、江戸末期に日本に来航し、幕府と条約を結び、日本を開国させたことは有名だが、ペリーが書き残したことに関して知る日本人は少ない。ペリーが日本に来た目的は、日本と条約を結ぶことと、日本の情報を集めることであった。

 日本人は、紳士的で、また外国の情報に精通していて、オランダ語、中国語が堪能で、科学の法則や世界の地理にも詳しいと書き残している。

しかし、このような開明的な日本人はほんの一握りであり、大多数の日本人は幕府の鎖国政策のため、海外の動向や情報に疎かった。

 日本人の海外のものを学ぶ好奇心は非常に旺盛で、彼らは新しい技術を学び、それを自らの技術に応用していった。また日本の工芸技術は非常に優れており、工業国としていずれ発展するであろうと、その後の日本の工業的発展を正しく予言している。

 日本の住宅や公共建築の構造設計は非常に稚拙だ。また、日本人の識字率は非常に高く、男女ともに多くの人が読み書き、店頭にはたくさんの本が並んでいる。

・イギリスの外交官
 ラザフォード・オールコックは、初代駐日大使館、公使であり、「大君の都」という本で、開国直前の日本の事情を紹介した。ハリー・パークスは、江戸末期から明治の初めまで、18年間駐日公使を務めた。アルジャーノン・ミットフォードは、イギリスの外交官で、「リーズデール卿回顧録」などを書き記している。

・チャールズ・ワーグマン(1832-1891)(日本滞在:1861-1887)
 イギリス人の画家・漫画家であり、幕末期の記者として来日し、さまざまな様子・事件・風俗を描き残すとともに、「ジャパン・パンチ」を創刊した。

・ヨーロッパとアメリカを旅した日本の漁夫
 大国屋光太夫は、ロシアのぺテスベルグに行き、エカトリーナ女帝に面会し、漸くのことで帰国がかなった。光太夫の体験は、桂川甫周により「北槎聞路」にまとめられた。ジョン万次郎は、元は土佐の漁師で、日本人で初めてアメリカの学校で教育を受けた。アメリカ彦蔵は、播磨国の人で、漂流し、アメリカ船に救いあげられ、同じくアメリカで教育を受ける。両人とも幕末・明治に日本に戻り、日米関係や日本の国際化に貢献した。